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研修講師:吉田喜彦の生い立ち

教材.comの研修講師、吉田喜彦はこのような人となりです。

弊社講師、その生い立ち

 1970年横浜で生まれました。
 男三人兄弟の真ん中です。
港がすぐ近くだったので、よく自転車で釣りに行ってました。ベイブリッジ近くの大黒埠頭にも、よく夜釣りでスズキなどを釣りにいってました。
ファミコンが出るまでは、遊びといえば「釣り」。友達に普通に釣船主人の息子、とかいました。横浜は川も海もあるのでほんといろいろと楽しみましたね。


また、幼少期に少し絵を習っていて神奈川県か横浜市か何かのコンクールで入賞をしたこともありました。もしかしたら、このころに観察力と配色などが身に付いたのかもしれませんね。(^^; ちょっと太っていたかもしれない・・・。
 あと、このころについに初めてパソコンをさわります。小学校6年生です。

パソコンとの出会い

当時は、BASICというプロラム言語しか内蔵ソフトがなかったのですが、それをなんとか駆使して(雑誌などでプログラミングの仕方を覚えたり、塾の先生に習ったり、と。)、ゲームなんかを作りました。
 塾ではじめて見て、親に2年間せがんで買ってもらいました。いろいろとやってしまう正確なので親もすぐにあきらめると思ったのでしょう(^^;
 当時はパソコン雑誌といえば、そういったプログラミング情報が普通だったので、いやでもプログラムが上達するんですよね。ホント、プログラミングの基礎はこのとき養われました。いや、ほんとわからないものですね。まあ、結構いろいろなものを作っていたかも。

高校時代

 中学、高校とパソコン雑誌を勝手につくって勝手に編集長やってました。表紙はコイツ、原稿は誰々・・・、などといろいろと頼んでまわって、で、売るときも頼んでまわって。今のWEBの編集にも通じるところがあるかもしれません。作るのが好きだったようです。あ、ちなみに部活は剣道部でした(初級で終わりましたが・・・(^^;。

 高校の時についにパソコンの雑誌に掲載されます。友人と3日間部屋で徹夜して完成させたゲームでした。ストーリーが友人、プログラミングが私。ちょっとしたロールプレイングゲームでした。載ったときは嬉しい、というよりも「やっぱり!」と思いました。当時その投稿コーナーでは、私たちが作ったような容量でロールプレイングゲームはなかったのです。自信はありました。ですので、「やっぱり」なのです。 しかし、今思うと偶然そういう投稿が他にもなかっただけだったのかもしれません。右が掲載誌で、左が富士通のパソコンFM−77AV。未だにこれはとってあります。メモリ640KB、CPU8ビット(今のゲームボーイよりも低い!)。

大学時代

 大学へは理科教員を目指すべく受験をしました。
 高校のときに進路を考えたときに慕っていた先生が生物の先生だったからです。その恩師は耳が不自由でした。生徒からの質問もほとんど聞こえない(生活は普通にできるようですが)ほどでしたが、そんなこととは関係なく、それはバラエティに富んだ授業でした。実験有り8mmあり受験対策あり・・・、と。ですから、今でもちょっとのことでへこたれては恩師に笑われてしまう、といつも自分を叱咤するようにしています。先生、本当にありがとうございました。
 また、高校の時は学園祭や体育祭などで必ず執行部や係りを率先してやっていました。なんでも企画するのがとても好きでした。

 大学に入るとサークルに2つ入ってしまいました。企画好きが災いして勉強はおろそかになります(笑)。バンドサークルとユースホステル研究会(旅行サークル)です。バンドサークルでは自分で作詞作曲をし(当時はTMネットワークが流行っており、上のパソコンで作曲や演奏をさせていました)ていました。ただ、そのときに、コンサートの企画や他大学との共同開催、パンフレットの広告取りの営業などなど、現在のイベント企画の元を先輩から教わりました。方向音痴ながら地図を眺めるのが好きで旅行サークルにもお世話になってました(今でも方向オンチですが地図を見るのは好きです)。
 しかし、考えてみると、パソコン雑誌企画やプログラミング、絵や音楽・・・、今思うとマルチメディアですよね。私が就職した当時は本当にマルチメディアという言葉が流行っていました。95年にWindow95が爆発的にヒットする直前にはマックがマルチメディアPCの走りだったのです。そう考えるとホント幸運でした。


 私は科目等履修生という制度で教職課程を取りました。教育実習もいきました。
 そのとき新聞奨学生をやらせて頂いてました。
 今、思うと若かったです。なぜって自分から、新聞販売店に飛び込みで「奨学生やらして下さい!」といったのですから(^^; そのようなリスクをとっていただいたオーナーにはとても感謝しています。そのときにいろいろと社会勉強をさせてもらったことは忘れません。配達員さんが夜逃げしていなくなってたり、販売店が社員一致団結してグループ最下位からトップになったり、と。
 雪の日や雨の日など、また、集金が思うように集まらなかったときなど辛かったときはありましたが、教育実習の時には夕刊配達を休ませてもらうなど所長をはじめ皆さんに助けていただきました。ほんとうにこの仕事に携われたことを感謝しています。

社会人、そしてフリーへ

 当時、たまたま流行りだしていたマッキントッシュを購入していました。大学のときにお世話になった研究室の恩師がたまたま使っていて身近だったのです。また、当時はエクセルといえばマックしかなかったんですね。ですからそれを使ってインターネットをやりはじめていました。パソコン通信というのは高校生の時にバイト先の大学生に教わっていましたが、インターネットは初めてでまたここでも雑誌やパソコン通信などから情報を得て我流で覚えていったのでした。
 それが偶然役に立ちました。
 新聞奨学生修了を控えた私は、当時、就職活動でいろいろな県の教員採用試験を落ちていました。年明け1月。新聞の折り込み中にその専門学校の教員募集を見ました。当時60人くらいその学校を受験しいたようですがマックを使えるのがナンと私だけだったというのです。そこで教師という生き方が始まりました。写真は赴任したての頃のものです。
 やがて、3年目を迎えるにあたってフリー契約を申し出ます。ずっと現場にいつづけるにはどうしたらいいか。学校以外でも教育をするには。そう考えいろいろなことが重なったのがその時期だったのでした。しかし、営業のあてがあったわけでも営業の仕方も知っていたわけではありませんでしたが、不思議と「役に立つことをしていればきっと自立できるだろう」とまたも楽観的に考えていました。
 その学校にも勤務させてもらいながら、はじめは地元のミニコミ誌に「お米一合でパソコンサポートします!」と無料で掲載してもらい出張パソコンレッスンをやりました。またホームページで似顔絵をオーダーメイドで描きました。今でいうネットショップです。それは勉強のためと思い無料でやっていました。ビジネスということを考えれば無謀なことだったかもしれません。しかし、そこで知り合った方や経験が今に生きています。
 何か教育的な活動をがむしゃらにやりたくてしょうがなかった、そんな気持ちでした。
 評価は後からついてくる。つまり、やっていることが間違っていれば、おのずと評価も悪いだろうと。そして、悪ければ素直に反省し、そのとき修正すればいい、それくらいに考えていました。
 ですから、これからも情報教育について精進していくことは変わりません。
 教師とは生き方だと思います。

 そして、今は父親としても教育の仕事してます。

2005年10月31日

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